ジョブチューンの審査員でもお馴染みビストロ石川亭

「美食アカデミー」でお馴染みのテレビ番組ジョブチューン。
その審査員としてメディアに出演中の辛口シェフ石川 敏樹(いしかわ としき)さんが作るお弁当、ビストロ石川亭にお邪魔してきました。

今日は、美食シェフ石川さんに、ビストロ石川亭のこだわりや、独立までの経緯について伺いました。

初めまして、ビストロ石川亭の石川です。
おかげ様で今はテレビにも出演させていただけるようになりましたが、それまでの私の人生は、波乱万丈という言葉がピッタリなくらい、いろいろなことがありました。


高校時代、野球で初めての挫折


手前味噌ですが、運動神経は昔から良い方で、部活は野球部に所属していました。
走るのも早かったので「なんだあいつは!」みたいな一目置かれる存在。


高校までずっと花形ピッチャーとして、ちやほやされていました。

「え、石川さん自慢ですか?」そのように聞こえたらすみません。
高校までは天狗だったのですが、ある時肩に大怪我をしてしまって、背番号をもらえず試合に参加させてもらえませんでした。

その時の私はショックを通り越して、恥ずかしいという感情を持ちましたね。
今思えば「そんなことかよ」と感じますが、自分が情けなかったので、野球から逃げてアルバイトに明け暮れました。

1万円目当てで、大阪の辻調理師専門学校に


高校卒業後は、正社員になりたいという願望もなくフラフラしていました。「どうしようかなー」と考えていると、大阪にある辻調理師専門学校への体験入学の資料が目に留まりました。

当時は景気が良かったので「交通費支給」と書いてありました。
あ!これで大阪に行って遊べる!そんな風にニヤリ。

その時は料理なんて1ミリも興味がありませんでした。
ただ、交通費がもらえることが嬉しくて仲間に声をかけ、辻調理師専門学校の体験入学に行きました。

男は料理や!

料理に興味がなかったので「あー早く終わらないかな・・・」と最初はぽけーっと説明を聞いていたのですが、その時先生の華麗な手捌きと、和食の美しさに感動。

料理の世界にぐいぐい引き込まれました。

当時先生が、料理の世界は最初が厳しい。
でも腕をあげれば、朝ちょっと店に顔を出して、昼はパチンコ打って、夜にちょっと店に顔を出して飲みに行く。
そんな生活で月収7桁も夢じゃないぞ!

そんなプレゼンをしたものですから「うぉー!料理の道ってかっこいい」そう思って料理の専門学校に入学。
ここから料理人としての扉が開いたのでした。

見た目で決めた、フレンチの料理人

専門学校に入学する前に、大阪の串カツ屋さんでアルバイトをしました。
そこでは、懐石料理の厨房も担当させてもらえたのですが、とにかく厳しかったです。


「いや、これ俺絶対無理だわ!」そんな風に思ったんですよね。
他の料理でできることはないかな。

そう模索していると、当時は西洋料理と呼ばれていたフランス料理のシェフの姿が浮かびました。

「コックコートってカッコイイ。男は西洋料理だよね」
そんな姿に憧れ、専門学校ではフランス料理を勉強。卒業後はフレンチの名門「株式会社東京會舘」に入社。


料理人を目指したのに配属先は「洗い場」

よし、これで俺はフレンチの料理人になる!と、意気込んで迎えた入社式。
「どこの部署に配属されるのかな〜?」とドキドキしながら迎えた配属先の発表を待ちました。
当時の人事部長から「石川くんはパントリー」と命名されました。

「パントリー?」耳馴染みのないカタカナ言葉にワクワクしながら案内されたのは、厨房の裏。
長靴とエプロンを渡されて、やっと僕は洗い場に配属されたんだと認識しましたね。

2,000人のパーティーで使うお皿やカトラリーを洗うのが仕事です。
ですが2,000人という規模に対して、現場で指示する総責任者は私一人。

アルバイトは、私よりも若い10代後半の役者から40、50代の夢を追うカメラマンなど。
2年間、洗い場の仕事をする中で、アルバイトさんのマネジメントを覚えましたね。

雑用から学んだ先手を打つこと

洗い場の経験の中で「先を見て動く」ということを学びました。

どういうことかと言うと、料理長が「おい、石川!ボールをもってこい」
と、料理に使う器具を指示するんですよね。

普通の人なら、ボールだけを持っていくと思うのですが、私は「料理長は卵を割りたいんだな!」そんな風にメニューから予測をして、泡立て器と卵のカラを入れるボールを持って行きました。

すると料理長から「君、いい仕事するね!」と気に入ってもらい、洗い場を卒業。
今後は「スープ」を担当させてもらうようになりました。

ひとりでは仕事はできない

画像

スープの仕事も過酷でした。

朝から晩まで、コンソメをひいて、ブイヨンと出汁を取って、ミリ単位で野菜を切って、うずらの卵3,000個の皮むきなど、気の遠くなる作業を繰り返していました。

ですが、うずらの卵を3,000個も剥くのは一人ではとうてい終わりません。
そこで、スープを作るスキルよりも、どうやって人を動かすかに頭がシフトしました。

僕が一番年下だったので「やってください!」と言っても動いてくれません。
そこで、定年間近の元偉かった方と仲良くなる作戦を実行。

お孫さんの話やその方が興味を持っている話をして距離を縮めましたね。

なぜなら、偉い方の下にはたくさん部下がいます。
僕が言わなくても偉い方が仕切ってくれるので、現場が驚くほどスムーズに回りましたね。

そんな感じで忙しくもやりがいのある日々を過ごしておりました。
ですが、将来のことを考えると「もうやり切ったな」と思うようになり、5年勤めた東京會舘を退職。

給与に惹かれ、三菱倉庫の社員食堂に勤務

フレンチシェフとして、三菱倉庫に入社しました。
三菱というだけあって、福利厚生がしっかりしているんですよね。

朝から晩まで働いたホテル時代とは雲泥の差。天国とさえ思えました。
それに今度こそはフレンチ料理を作れるぞ!と意気揚々していました。

ですがオーダーは、「天丼一丁!」「納豆豆腐」「卵とじ」など家庭料理ばかり。
フレンチとはほど遠い注文です。

あれ?なんか自分がやりたい事と違うな。
そう思って1年半で退職。

しばらく海でも行ってリフレッシュしたいなぁと思い、伊豆高原のリゾートホテルに住み込みで仕事を行いました。

リゾート地で初めて料理に恋する


リゾート地の仕事はとても楽しかったですね。
みんな仲が良かったので、魚の捌き方や羊のおろし方などイチから学びました。
ここで初めて、料理って楽しいと思うようになりましたね。

その後、標高2,000メートルの山奥にあるホテルに修行に行き、29歳まで働きました。
ですが、結婚したいというのもあり下山。

そこから、お台場のホテルを経て、30歳の時に森ビルのホテルに勤めました。

森ビルで扱う食材は超一流。
面倒見の良い料理長について行きたいと思い、30歳から33歳まで必死にくらいついて行きましたね。

周りのシェフはフランス人やエジプト人。
日本語が禁止ということもあり、移動中の電車の中は勉強するなど、とにかく必死にもがきました。

日本一魚を卸したと言っても過言ではないくらい朝から晩まで魚を捌く毎日。
もうやり切ったと思い、34歳で独立。

奥さんと従業員とお客さんが離れる

地元埼玉県で始めたお店は大繁盛。
オープンの初月から3ヶ月間は毎日満席が続きました。

当時結婚していた奥さんとパートさんと店をやっていたのですが、どうも私がキッチンに立つと豹変してしまうようで、怒鳴り声がお客さんにまで聞こえて、お客さんが離れていきました。

しまいには、俺が怒るものだから、奥さんも離れていき、従業員も奥さんについていくものですから、私一人になりました。

全財産が6,700円

その後、なんとかパートの方を採用して、店を立て直すものの、お客さんが離れていったのでパートの方への給与も支払えません。

当時支払い日が25日だったのですが、24日には自分のシフトを入れず、出稼ぎに出て、なんとか賄っていました。

いや、このままじゃマズイな、そう思い、まずは自分が変わろうと思い店の雰囲気を良くしました。そうすると従業員も活気付いて、自然とお客さんも戻ってくるようになりましたね。

お父さんは日曜日が休み

店の雰囲気も良くなり、なんとかお客さんも戻り、オープンと同じくらいの繁盛店にまで回復。
その頃私は、30代も半ばに差し掛かっていたので子供が欲しいなとも思っていました。

私の中で「お父さん=日曜日が休み」というイメージがありました。
しかし、日曜日だけお休みをとっても疲れはとれず、やっぱり土日休みに憧れがありました。
そこで、土日休める場所はないだろうか?と考えるように。

必死になって考えた結果「ビジネス街」が頭に思い浮かびました。物件を探してみると、神田に良い場所を見つけ、そこから1号店がスタートしました。

1号店で見た地獄の日々

ですが、埼玉から都心に移転となると、家賃は5倍。お客さんの人数は変わりません。
なんとかしなければと思い、1月2日からお店に段ボールを敷いて寝泊まりをしました。

なぜなら、家までの往復の電車賃より銭湯の方が安かったからです。

段ボールって意外と温かくて、よく眠れるんですよ。
ここで初めてダンボールのありがたさを感じましたね。

店に寝泊まりをする生活を2年間続けました。

店にテレビもなかったので、当時、麻生大臣が総理大臣になったことも知りませんでした。

絶望の中で訪れた奇跡

そんな生活をしている中で、ある奇跡が起きました。
それは、当時掲載していた「ぐるなび」さんのランキングに取り上げられ、フレンチレストラン全国4位に上り詰めたことです。

メディアの力は大きいもので店は毎日長蛇の列。
当時200万円の売り上げが700万円までいきました。

それがきっかけになり、週刊誌や美食家にも取り上げられるようになりました。

来栖けいが絶賛したハンバーグ

画像

当時はテレビなんてなかったので、誰かわからなかったのですが、宝くじ2億円当たって全部使った男としても有名な美食家「来栖けい」が来店しました。

彼がオーダーしたのは冷製スパゲッティとハンバーグ。
実はハンバーグ、彼が来る前日からスタートした新商品です。

前日、サラリーマンのランチで売れるメニューはないかな?と未経験のスタッフと話していたら、「サラリーマンはみんなハンバーグ好きっすよ」という回答をいただいたので、急遽ハンバーグを出すことにしました。

ちょうどそこにまかないで使うキャベツがあったので、中に入れてみたら?という発想になり、試作したところ大好評。

よし、これはメニューでもいける!そう思って商品に追加した翌日に起こった出来事でした。

ひっきりなしに鳴る取材の電話

「あのースッキリですけど来栖さんの紹介を見まして!」
メディアから電話がひっきりなしにかかってきます。

嬉しいことに、毎日レストランの外には長蛇の列。
メディアの力の大きさを感じましたね。

そんな中、多店舗展開もしたいなと思うようになりました。

そこでご縁のあった三井不動産の紹介で「コレド室町」に出店。

商業施設マジック

コレド室町に出店を皮切りに、多店舗展開に踏み切りましたね。
5店舗目までは14年かかったのですが、6店舗から11店舗までは2年で拡大する事ができました。

震災をきっかけに弁当を始める

画像

しかし、そこから震災があり、オフィス街も真っ暗になります。
当時東京も自粛ムードになり、客足もめっきり減りました。

そこで、新しいことをやらないとこの先、生き残っていけないな。
そう危機感を感じて、弁当をスタート。

冷めても美味しいハンバーグ

8種野菜とキャベツ入りハンバーグ 特製デミグラスソース弁当-mainlargeimage


2021年9月の下旬から、「ブラストチラー」というマシンを取り入れてお弁当を作っています。
ブラストチラーとは熱々の料理を急速冷凍するマシンで、ハンバーグなどの旨みをギュッと閉じ込める事ができます。

このマシンを使うことで、冷めた状態でもハンバーグの旨味がたっぷりなお弁当をお客さんにお出しする事ができます。


メディアでも取り上げられているビストロ石川亭のお弁当は、くるめし弁当からご注文・ご予約いただけます

ビストロ石川亭|都内人気フレンチのビストロ弁当


▼ご予約・ご注文はコチラ
https://www.kurumesi-bentou.com/bistroishikawatei/